本「いつか記憶からこぼれおちるとしても」江國香織

「いつか記憶からこぼれおちるとしても」江國香織 2002年

日本人の独身者で性体験なしの率が増加している話を友人から聞かされた。そんな時に、たまたま私が現在住んでいるオハイオ州の私立図書館の棚で、この本を見つけて借りた。

この本が出版された時から14年が経った今、この本の中に登場する東京の私立女子高の生徒たちは、30歳を超えていることになる。おそらく独身が多いだろう。

精神を病んだエミは回復しているか。命はまだあるか。クラスメートが黴菌のようにエミを扱う中、何とも思っていないような高野は既に男を翫び、飽きたら平気で捨てられる若い獣性を持っている。援助交際で性と金品を交換するのが生活の一部になっている彩は、性を生きる喜びに取り戻しているかどうか。少なくともこの二人は「性体験なし」のグループには入らない訳だが。

自らを「不感症」と決めている菊子は、電車内で女性に触れられて、その女性に目が離せない。その菊子は、今、こんな男と付き合っているのではないか、と想像した。

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窓を開けると、冷たい風が吹き込んでくるのを頬に感じた。5分前まで一緒にいた菊子が振り返りもせず、音を立てるでもなく公園に向かう道を歩いて行くのが見えた。ショルダーバッグをかけている左肩が多少上がっているのを菊子自身は知らないだろう。窓から手を伸ばせばボブカットの髪に届きそうな気がする。髪に隠れた形の良い耳を一体何人の人間がこの世の中で知っているだろうか。

「菊子の耳は程よい大きさで、触れては申し訳ないくらい綺麗な流線型をしている。僕は好きだ」「変な人。耳の事なんか褒めてくれた人は今まで誰一人としていないわ。親だって私の耳の形なんか知らない筈よ」

という会話を思い出しながら慎は窓を更に大きく広げて菊子の持ち込んだブルガリの匂いと外気の中に漂う遅い秋の匂いを入れ替えた。

少しばかり汗ばんだ薄手のエジプト棉の白いシャツを脱いで、洗濯機に投げ入れ、クローゼットにかかっている、まとめて買った同じ6枚の白いシャツの1枚を取り出した。着替えると、やっと自分を取り戻したような気分になった。菊子がいた間、わずかに聞こえるほどにしておいたジャズのミックスはジョー・ヘンダーソンのブルーボッサに変わったところだった。音量をあげると、部屋に残った匂いを音の響きが外に押し去ってくれた。

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ママといつでも一緒のお嬢さんの柚が日本の希望の星かもしれない。ママのルノーの送迎に慣れていても、北風の中を何時間もボーイフレンドと手をつないで歩く楽しみを知っている。歩く事くらいしか思いつかない(意図的?)彼の素敵な笑顔を認める素直さを持っている。もしかしたら、今はママも巻き込んで、子育てに忙しいかもしれない。

若い女性に、「そうそう私もこんな時があったわ〜」と記憶から「こぼれおちる」のを待たずに、さっさと振るい落として、良い意味での鈍感さを備えるくらいになって欲しいものだ。

 

 

本 「哲学のなぐさめ」アラン•ドボトン

The consolations of Philosophy by Alain de Botton , 2000

consolations

 

生きていればいろいろ厄介で辛い事が起きる。余程の楽観主義者か、達観した人でもない限り落ち込む。そんな時に、怠けがちな自己を駆り立てて、「凡人の君を達人に変える」「道は開ける。道を開こう」というよう自己啓発的な本の代わりに、哲学者からの英知を借りた「慰め本」はどうだろうか。

 

 

The consolations of Philosophy (哲学のなぐさめ)は

ソクラテス

エピクロス

セネカ

モンテーニュ

ショーペンハウアー

ニーチェ

の哲学や人生を通して、

もてない、人気がない、お金がない、大事な時に体がいう事をきいてくれない、自分には能力が欠けている等々、普通人の日常の悩みを

「こういう風に考えればいいんじゃないか、この哲学者は、あなたと同様の状況でこう考えたんだ」

と(優しく)説いてくれる。読み物としても面白いが、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語と一緒の英語は読みやすくはなく、読んだ途端に忘れてしまうことが多かった。しかし、

「お金をいくら持っても幸せにはなれない。友達や恵まれた人間関係が幸福と大いに関係がある」というような事を説いたエピクロスは紀元前ギリシャ時代で既に幸福論を説いていたことが分かり、彼について語られる酒池肉林的な快楽主義は彼の求めていたことではなかった。むしろ、老荘的なミニマリスティックな平穏な心の快を追及したことが分かる。

また、いかにも難しそうな事を考えていたと思えるショーペンハウアーが、引きこもり的で、今でいうピープルスキルに悩み、愛を求めていた人だったとも読める。43歳の時に、17歳の美しく闊達な少女に惹かれて、パーティーで白ブドウをあげると、

「ムカついたわ、あんな年寄りのショーペンハウアーが触ったブドウなんて」と少女が日記に書かいたというから、それはあまりに哀れではないか。全体を流れるペシミスティックな哲学は彼自身の左脳から来たものであろうが、先に右脳が随分と辛い思いをしたからだろうと想像できる。そうした、個々のストーリーを読みながら、哲学の入門書として読むのも良いのではないだろうか。

がっかりすることの多い結婚生活なども、この本によって考え方を変えて、期待値を下げれば、リラックスできるようになるかもしれない。

映画 Sausage Party (ソーセージパーティー)

映画 Sausage Party (ソーセージパーティー) –  「子供は見てはいけません」というアニメ

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公開2016年8月 監督 Greg Tierman, Conrad Vernon  脚本 Seth Rogan  and others

映画の題を聞くだけで「わっ、やらしそう」と思う。R指定(成人映画)のアニメ。

この映画を観たのは一般の映画館ではなく、バーが付いた映画館で夜9時からの始まりだった。お酒で相当緩んだ頭でも理解できて、笑って、そして退場するという種類の映画だ。「心が温かくなった」「懐かしかった」「癒された」「家に帰った後もほっこりした気持ちが続いた」などの感想を持つ人は皆無だろう。

親や先生が「頭が悪くなるから観るな」と言いそうだ。英語のスラング、それにアメリカの世相が分かる点は少しは役に立つと言えるかもしれないが。

登場するのは殆どが食材。主人公がホットドッグのフランクで、切れ目の入ったホットドッグ用のパンのべリンダがガールフレンドとなれば筋の運び、それに最後がどうなるかは想像できるでしょう。

独立記念日のスーパーマーケットで話はスタートする。人間に「選ばれた」と喜ぶ食べ物やモノだが、その選ばれたモノたちは自分の真の運命がどうなるのかは知らない。スーパーの外には偉大なミッションが待っているかのように考えている。それが、返品されたマスタードによって恐るべき真実が知らされ、ショッピングカートから逃げる途中で滑り落ちたり、壊れてゴミ箱に捨てられたり。フランクやべリンダの敵となるのはノズルが曲がって使い物にならなくなった膣洗浄用品のDouche (ドゥーシュ)。

「大きな存在意義」を求めて冒険し、スーパーの棚に戻るといったストーリーは他の伝統的冒険譚の構成を踏襲している(パロディー的でもある)。声優の顔ぶれを見ると、作り手たちが身内で楽しんだという感がする。

ところで、「いけ好かない奴」「嫌な奴」「生意気な奴」を

”He’s a douchebag”

と言う人がいるのは知っていたが、実物の形を知らなかったので説明を聞くまで話がクッキリと通じなかった。