Monthly Archives: November 2015

「この国のかたち」司馬遼太郎

「この国のかたち」司馬遼太郎、1990年

司馬遼太郎による歴史エッセー。はじめに人間や国家のなりたち、思想について触れ、日本には自前の思想が育たなかった、思想はいつも外からくるものだったと断言している。確かに、遣隋使、遣唐使を送る前の日本がどのようだったかは不確かで、経典を持ち帰って以来、延々と様々な思想、宗教は外からやってきた。

宗教の持つパワーが増せば、織田信長のような人がそれを打ち払って、人々の暮らし方をコントロールするものはあった(ある)ものの、それ以上をコントロールするものはない。彼の取り上げる登場人物は、自身の好悪が現われ、彼の手による「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛のような人物、現在で言えば、学歴はないが教養のあるコスモポリタン的資質を備えた人物を高く買っている。反対に、第二次世界大戦前、大戦中、大戦後、軍という組織の中で上手く立ち回った責任を取らなかったエライ人を名前を挙げて攻撃している。

出版されてから25年が経った今、司馬遼太郎が生きていていたら、幕末の出来事について別の見方をするのだろうか。明朗闊達で、著者が好んでいた坂本龍馬も、「坂本龍馬、グラバー、開国、三菱財閥」というキーワードでサーチすると、あっという間に、スコットランド人のグラバーと海援隊を率いた坂本龍馬に関する、史的資料、私見、陰謀説がリストされる。

クールジャパンの世界に暮らしていた日本を新市場として捉え、開国を迫った英国/アメリカの使いっ走りとして龍馬が使われてたかにも見えてくる。グラバーという若者は、同じスコットランド人のJardin & Mathesonがアヘンを清国に売って大儲けをしたのを見たか、聞いたかしたのではないかと想像してしまう。狡猾な人々を相手に一方的に不利な条約を締結させられてしまったのは、今に始まったことではない。

中国、朝鮮(韓国ではなく)日本の歴史的関係、朱子学の影響の部分を読むと、今の政治的関係、感情的ねじれが少しは分かる気がする。日本は自分たちが「華」だと思っている人々を相手にしているのである。江戸期、多様な思想が出てきて、官学であった朱子学の空論性を攻撃するような思想家が居た日本と違って、朝鮮は現実よりも名分を重んじた朱子学を唯一の価値として進んだ。その価値が未だ、国民的価値だとすると、思想性の薄い(弱い)日本人と相容れない状況が起きるのは仕方がないことなのかもしれない。信じる力は侮れない。

 

「わたしは甘えているのでしょうか?」(27歳・OL) 村上龍

「わたしは甘えているのでしょうか?」(27歳・OL) 村上龍、2009年

25歳〜35歳前後の女性が発した仕事、恋愛、結婚、生き方などの問いに村上龍が答える形式の本。出版から6年経った今でも、書かれている内容は古くなっていない。

この年代の女性には特有の悩みが怒涛のごとく押し寄せてくる。大抵は、仲の良い女友達とワインを飲みながら、あるいは居酒屋であーだ、こーだと話し合い、結局、何の結論も出せないまま、でも、少しはスッキリして、また、明日を迎える。

答えは自分では分かっているけれども、一応、「バカだな、お前、そんなん考えてるのか。心配いらないんだよ」と誰か、社会的に認められているヒップなオジさんに言って欲しい。時には頭を殴られるような、身も蓋もないような正直な意見も聞きたい。そんな女性からの、一見どうでもいいような質問に、その辺のオジさんの代わりに村上龍が答えている。例えば、

「同じように1万円使うなら、何に使えば『自分磨き』に有効ですか?」

と質問した26歳の図書館司書は、具体的に、「いい女を目指して自分磨きをしているけれども、本と洋服とどっちを買うべきですか?」と聞いている。

村上龍の答えがまとも過ぎて可笑しい。女性が生きる選択肢が増えたことで、自分を磨くとか、能力・知力を高めようとする社会常識が形成されて、それがムードになっているけれども、

「自分を磨くって一体、何なんですかね。毎日、軽石で体をこするわけじゃないですよね。この人は「本を買った方がいい」と言って欲しいのかな」と。本を買っても積ん読では意味がないし、洋服が足りない人は洋服を買った方がいいし」

要はその人にあった有効なお金の使い方があり、それを考えるのが大切だと、至極当たりまえの答え。

でも、女の私からすればその答えは少し的が外れているような気がする。頭脳筋を鍛えて、知力で勝負するのと、見た目を向上させるのとでは、職場、恋愛・結婚市場でどちらが有効か、男性は頭の良い女性と、綺麗な人と、どちらが好きなのかを暗に聞いているのではないだろうか。

上の村上龍のような当たり前の答えだったり、

「昨今は、女医さん、理学博士なんかも、結構綺麗なんだよね」とか、

「男はやっぱ、綺麗な人が好きだからなあ」というような答えは言わずに、

「内面が充実した人が魅力的」と言われたいのだと思う。

村上龍は、彼女が期待している答えを知っていながら、別の聞きたくない答えを言っているようにも思える。全体を通して、「男って女の気持ちが分かんないのね」と愚痴が聞こえそうな解答が多い。別の質問に対する答えも、ほぼ、このような感じだ。同棲していた恋人と別れた26歳の女性が、

「恋愛していなと死ぬほどさみしい。どうしても耐えられません…」

という問いに対して、

一人で生きていけないと言いながら、みんな結構耐えて生きているわけだから、アドバイスのしようがないと言っている。身も蓋もないのだが、もちろん、フォローアップも忘れない。

「さみしくならない方法はある」と感情を別のところに持って行く幾つかの方法を教え、さみしいという感情は不自然ではないと締めくくっている。

職場での悩み、恋愛などの悩みから、社会問題、生き方など話題は広く、読み物としても面白い。

 

 

「日本語練習帳」大野晋

「日本語練習帳」大野晋、1999年

この本が出版されたのは、今から15年前だが、基本の日本語の骨格を理解して技能を磨くための練習本としては、今も間違えなく使える。

2章の文法なんか嫌い

の章では、「は」と「が」の説明をしながら、分かりやすい文とはどういうものかを説明している。

昔々、あるところにおじいさんと、おばあさんがおりました。

おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に、、、

日本語を勉強している外国人に 「は」と「が」の違いの説明を求められたりする事のある方は、この章を読むと上手に説明ができるようになるはずだ。

保険の契約や、クレジットカードの申し込み書の文、法律の文章なども、彼が説明するように、A(主語)とB(述語)がなるべく近くで呼応して、言わんとすることを明確にしてくれるとありがたい。が、そうはならないだろう。責任や権利の交渉余地を(売り手)に有利にするために意図的に不明な文章が書かれることもある。そういう文を読み解くために、読み方の練習をしておくことは無駄にならない。

すっかり忘れていた話。

学校で避けて通れない作家の志賀直哉だが、彼は、日本語を嫌っていたようだ。第二次大戦後の教育改革で漢字全廃、ローマ字化の動きに対して、

「日本語は不便だ。この際、世界で一番美しいフランス語に国語を変えてしまったらどうか。自分はそれほど、フランス語のことは分かってはいないけれども、フランスは文化の進んだ国だし、文人たちによると、整理された言葉ともいうし(自分では判断できない。人の意見)フランス語がいいような気がする」と、書き述べたそうだ。また、これより60年遡った出来事として、

「森有礼は英語を国語にしようとしたが、もし、それが実現していたら、日本の文化がもっと進んでいたことであろう。恐らく、今度の戦争も起きていなかっただろうと思った」と言っていたそうだ。彼が21世紀の今、生きていたら、公用語に英語を採用した企業を見て、

「ほら、自分の言った通りだろう」と表面だけを見て喜ぶかもしれない。その程度の人だったとは驚きだ。

文の推敲、重要ポイントの抜き取りの練習の合間にこのような話題も挿入されている。