「サロメの乳母の話」塩野七生

「サロメの乳母の話」塩野七生、1986年

歴史上の悪女、愚帝、王様、裏切り者、聖人、詩人として語り継がれてきた人物10人を、その人たちの「お側」にいたとする人々の目で生き生きと描いている。埃をかぶった歴史の紙の上から、人物が立ち上がって感情を持って動き出す。

洗礼者ヨハネの首を欲しがったサロメの乳母から見た「お姫さま」は、慾情に駆られたサイコ女性ではなく、政治的感覚を持った賢い女性である。それが本のタイトルになっている。語り継がれてきたサロメは、聖書にしろ、オスカーワイルドの戯曲にしろ、男からの目だ。

サロメはヨハネに恋したが、彼はサロメに愛を返してはくれない。首を切り取られてしまったが、ヨハネはサロメの誘惑に屈しない勝者だ。オスカーワイルドの戯曲「サロメ」のビアズレーによる挿絵、文字通り柳眉を逆立って恍惚としているような彼女の姿が、サロメの印象を決定的なものにした。

筆者は、それとは反対に、サロメは民衆を動かす「善意に満ちて清らかな人」が為政者には危険だと冷静に見ているとする。義父のヘロデ王がヨハネを生かすも殺すも危険だとコーナーに追い込まれているところを、「恋で気の狂った娘が言い出したから」殺すしかなかった、という言い訳で救ったのだと。

彼女にかかると狂暴な愚帝はたいてい、心配性の気の小さい男になってしまう。たまたま、そういう地位を好むと好まざるとにかかわらず手にしてしまった気の毒な人に見える。

アッシジの聖フランチェスコの母親はフランス人だというのを初めて知った。イタリア人に嫁いたフランス女性が自分の息子に「フランス人」という名前をつけて、その子と一緒にいる時にはフランス語を話した、というくだりは私自身よく理解できる。赤ん坊、ペット、舐めるように育てたい対象にには、胸の内から自然に湧き出て来る言葉で話したいのだ。一生懸命習った外国語(私の場合は英語)では、感情が伝えられないと、私は感じている。

 

最終章の悪女連の饗宴の章は、なくても良い気がする。