「猫の客」平出隆

「猫の客」平出隆、2001年単行本、2009年文庫本

作家、猫、小路が出てくれば村上ワールドを想うが、「猫の客」には小路や古い家に髪の毛の長い若い女性が現れて、挑発的な仕草で作家の頭を混乱させたりしない。動物のことが良く分かる妻と住んでいる古い家は小田急線の沿線なのだろうと想像する。

1980年代半ば、私は東京目黒区柿ノ木坂の古いお屋敷の一角に住んでいた。家主は海軍の高い地位に就いておられたが、戦後は中央に顔を出すことはなかったようだ。時々、中年の娘たちを叱りつける声がしたが、静かな暮らし方だった。

暖炉のついた、寄木細工が施された木の床の居間を間借りして、毎月3万円程度だったと思うが払った。大きな庭には店子専用の風呂小屋があって、雨の降る日には傘をさして飛び石伝いに小屋と母屋を行き来した。門限が10時になっていて、毎日のように門限直前に電話をすると裏木戸をうまく開けられるようにしておいてくれた。

多くの友達が出入りし、宴会を開き、泊まり、大家さん家族と共用のトイレで鉢合せをすることもあったが、家族は私に何も言わなかった。教養を備えた個人主義の信奉者のような人たちであった。旅行をする度に家主の元にオールドパーを届けたのが効いていたのかもしれない。彼にとっては特別な思い出があったらしく、瓶の箱を手にしたまま難しそうな、不機嫌そうな顔を崩して、イギリスでの思い出話をするのだった。

もし、私があそこで猫を飼っていたらどうなっただろうか。意図しなくても、たまたま猫が私の元に訪れたらどうなっただろうか。「猫の客」を読みながら、古い洋館や木でできたモダンな日本家屋が並ぶ目黒の一角で暮らした若い日々を回想した。

その頃、集まった人の中で、一座を沸かせ、中心に座った二人は今は亡い。

実はこの本、ドイツにいる娘が「フランスで人気がある本なのよ」と言って自分が読んだ後(だと思う)にアメリカにいる私に’送ってくれたものだ。何事も起きないような小路を行き来する日本人の風景と季節の移り変わりなどが静かに繰り返される世界にフランス人は憧れるのだろうか。距離的には近くにいながらお互いに深入りしない、何本も引かれたような平行線に沿って進む都会人の間を猫がジグザグに往来して、時々、その猫に関わる人間を驚かせたり、近づけたりする役目をしているのかもしれない。

2000年ごろ、お屋敷がどうなったのだろうかと行ってみたが、探せなかった。町並みもすっかり変わり、樹木と木造家屋は消えて、色のついた二階建ての値段の高そうな家ばかりになっていた。お屋敷のあった番地は「猫の客」中の大家さんのように、敷地を割って売ったのだろう、2軒の大きな家が建っていた。