「沖縄文化論 – 忘れられた日本」岡本太郎 1972年 中央公論社、1990年 中央文庫

「沖縄文化論 – 忘れられた日本」岡本太郎 1972年 中央公論社、1990年 中央文庫

1790年、大阪で開催された万博の太陽の塔を制作した岡本太郎による文化論。彼がソルボンヌ大学で民俗学を学んだのだと、初めて知った。内から爆発するような生命エネルギーを発している作品や挑発的な発言をずっと好ましく感じていたが、書き方にもエネルギーが満ちている。一芸に秀でるというが、一芸に秀でられる人は一芸に収まったりしないのだ、と改めて思った。

戦後の沖縄はその立ち位置を自分で決められずに、本土に復帰した今も常に外からの圧力や政治に揉まれている。岡本太郎は1959年、本土に復帰する前の沖縄に滞在し、沖縄、周辺の小島で会った人々、体験に触発されて思考した生命、文化と風土、日本、芸術などについて、この本で論じた。

彼は、一般市民の屈託ない、飾らない、何も持たない、ぎりぎりのところで生きる姿や素朴さに美や文化というものを見出した。明治以降、西洋から輸入して勉強した文化や芸術、それに対抗するようにして作りあげられた日本文化などを毛嫌いしている。

人間がぎりぎりのラインで生きるエピソードとして語られる与那国島の例が興味深い。もちろん、当時からみても、それは既に昔話ではあるが —

島の中央にトング田という水田があって、ある日、突然、なんの前触れもなく法螺貝と銅鑼が鳴り響くと、島民は何もかも放り出して一斉にトング田に走る。この田は島民全員が立てるほど大きくはなく、はみ出た人は、そこで殺されてしまうという。それは島に生きる人の掟であった。

また、冒頭で語られる民俗学者の柳田國男氏の「山の人生」も鮮烈だ。

ある炭焼きのやもめが13歳の男の子と、もらい子の同い年くらいの女の子と山の炭焼き小屋で暮らしていた。炭を売りに行ったものの、何も売れず、食べ物は買えず、小屋に帰ると二人の子の顔を見るのが辛くて、奥で寝てしまった。目が覚めると、子供たちは一生懸命に大きな斧を研いていた。そうして、仰向けになって、父親に自分たちを殺してくれと言った。言われた炭焼きは、今で言うパニックに陥り殺してしまう。死ぬことのできなかった父親は長いこと牢屋に閉じ込められることになるのだが、老いて特赦を受けて出てきた後のことはわからない。

心地よい生活をするために「やり繰り」ばかりをしてきて、屈託ない生き方をできなくなった自分を恥じた。