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映画 The Night of the Hunter (狩人の夜)に見るアメリカの銃文化、単純化するものの見方

フロリダの高校で2月14日に銃乱射事件が起きた。幾度も繰り返されるシーンだが、政治家は憲法修正第2条を盾に銃規制に動こうとはしない。その高校の代表者や亡くなった生徒の親が必死にトランプ大統領に「何とかしてください」と訴えると、

「(子供を守れる)しっかり銃を扱える先生がいればいいんだが」

と言って人々を驚かせたが、彼は案外心底そう思っているかもしれない。そして、その大統領の言葉に同意する人も少なくないかもしれない。タイトルにある古い映画を思い出した。

映画 The Night of the Hunter (狩人の夜)

監督 Charles Laughton 脚本  ames Agee

公開 1955年

モノクロームのThe Night of the Hunter (狩人の夜) は悪人と善人、罪人と純真無垢な子供、言葉に騙されてしまう大人と嘘を見抜く子供、愛と憎しみなどがくっきり二つに分かれて現れる。

ロバート・ミッチャム扮する偽伝道師ハリーは右手の指にL ・O ・V・ E 、左手の指に H・ A・ T ・E と刺青を入れて、その手を組んで、まやかしの説教に使う。そのシーンは有名だ。

ある日、少年ジョンの父親ベンが慌てふためいた様子で札束を握って家に帰ってくる。強盗殺人を犯して得たそのお金をある場所に隠した後、警官に取り押さえられるのだが、その場にいたジョン(8歳くらい?)に「決して誰にも隠し場所を言うな、お金は将来お前のものになる」と言い聞かせる。妹の面倒もみるようにとも。彼は刑務所に送られ死刑になるのだが、そこで一緒になったハリーは隠し場所は子供に関係があるとみて、ベンの妻と結婚してまで子供たちに近づいて行く。巧みな言葉で人々を騙すが、ジョンを騙すことはできない。身の危険を感じてオハイオ川に逃げるジョンと妹のパール、追いかける継父。身を寄せた二人を護る女性レイチェルは善そのもの。

闇夜の庭から近づいてくる悪人ハリーに善人レイチェルはリビングルームでライフルを抱えて待機している。真っ暗な画面に光が当たるのはライフル。悪は外からやってくる。そしてその悪に立ち向かい、家族や自分たち善を守るためには銃が必要なのである。分かりやすい。闇の中で偽伝道師と真のクリスチャンであるレイチェルが同じ賛美歌をデュエットするシーンも見ものだ。

作り物の映画の世界ではレイチェルがハリーをライフルでやっつけてくれるし、頼もしい保安官が悪者を一発で仕留めてシャンシャン手拍子で問題を解決してくれる。複雑な事は考えなくて良い。現実は白黒、善悪が混じって存在する灰色の世界で「妥協」が解決方法だったりするが、一般的に妥協は汚い事でもするように見られがちだ。善悪、勝ち負けがはっきりしない。

高校生たちガンバレ

別に高校生たちは一挙に銃保持を違法化してくれとかは言っていない。銃法を変えさせまいと政治資金でアメリカ政界を繰るNRA(全米ライフル協会)の会長席に一時期、俳優のチャールトン・ヘストンが座っていた。

肩を落とすばかりで何もできない大人に代わって高校生たちが何かを動かすかもしれない。若者頑張れ!映画とは大分逸れてしまったけれど。

 

 

映画 I, Tonya ( 私 トーニャ)と Molly’s Game (モリーのゲーム)。冬季オリンピクを直前にタイムリーな映画2本

I, Tonya (私、トーニャ)

監督 Craig Gillespie 脚本 Steven Rogers

公開 2018年1月

冬季オリンピックに合わせたのだろう。元オリンピック・フイギュアスケーターのトーニャ・ハーディング、スキー選手のモリー・ブルームの自伝的映画が立て続けて公開されたがどちらも面白かった。殊に、I, Tonya はアカデミー賞を獲得するだとうと予想している。

「I, Tonya」という題は日本語だと「私 トーニャですけど、何か?」或いは「お騒がせのトーニャです」とでも言ったらよいか。彼女はそういう印象を常にフィギュアスケーターとして与えてオリンピックに出場し、メダル獲得はできずに、それだけではなく過去に勝ち取った各種選手権のメダルや栄誉を剥奪されて消えた。

メディアとはそういう獣なのだろうが、トーニャは叩いて構わない人のように扱われていた。対する守りたい女神のような対象はナンシー・ケリガン。彼女は1992年のアルベールベル・オリンピックで銅メダルを獲得していた。しかも、細っそり美しく米国を代表するにふさわしいと一般大衆にサポートされていた。当然2年後のリレハンメルでは金メダルが期待されていた。

技術はあるけれど(伊藤みどりに次いでトリプルアクセルを2番目に成功させたとされている)、フィギュアスケート選手として相応しくない(暗に育ちが良くない)トーニャが元夫を含む一団にお姫様を襲わせたとなればメディアは大興奮して彼女を叩いた。彼女は「叩かれ慣れている」と言っている。母親は今でいうモラハラだ。そういうシーンが何度も出てくる。その母親約のアリソン・ジャネイの演技が素晴らしい。

彼女のトーニャに対する愛情表現は持っているお金をはたいてフィギャースケートをさせてやることだ。資力のある親や協力者にサポートされた競技者ではなく、彼女は不運な人生格闘的アスリートだった。彼女については当時、興味はなかったものの、「あなた運が悪かったわね、頑張ったわね」と言ってやりたい気持ちで見終えた。

Molly’s Game ( モリーのゲーム)

監督・脚本 Aaron Sorkin

公開 2018年1月

良い子のスキーヤーであるモリーの場合はモラハラは父親ケビン・コスナー)から来ていた。心理学者にもかかわらず、背骨の大手術をした幼い娘に星一徹のように厳しい練習を課すような人だった(巨人の星の星一徹を知らない人も多いかもしれない)。娘は他の男兄弟二人と違って何故、自分ばかりが厳しく扱われるかがわからない。勉強もよくできて、常に努力を怠らないモリーはオリンピック出場をかけたスキー選手権で不運なアクシデントで競技生活を閉じる。

ロースクールに行く前にロサンゼルスにでかけて、気分転換をと思ったら、人生転換が起きてしまった。見よう見真似で賭けポーカーを手伝ううちに、頭の回転の良さも幸い(?)して高級ホテルで女胴元のようになっていく。頭脳と美を武器に自転車操業のような賭博ビジネスを続けるが、ロシアのギャング、それにFBIには勝てない。

法的な窮地から救いの手を差し伸べてくれるのが、007 じゃないイドリス・エルバ演じる弁護士。これからどうなるんだ、とゴール(終わり)が近くなってくると、ずっと連絡を絶っていたケビン・コスナーというか父親が急に現れるのは、ちょっと安易なストーリーじゃないのと思えるが、まあいいか。

メダルを取って、シリアルのコマーシャルに出られるのは金メダルで首が折れそうになるくらい取らないとできない。モリーはオリンピックに手が届かず、トーニャは不名誉なまま忘れられ、直後の金銭的見返りは得られなかった。が、後でスポットライトを浴びる結果となった。

 

映画 Westworld (ウエストワールド) 新旧を一挙に観る

Westworld 2016年

 

https://www.amazon.com/Westworld-Yul-Brynner/dp/B000LJ9ZWE/ref=sr_1_3?s=movies-tv&ie=UTF8&qid=1515442271&sr=1-3&keywords=westworld

2016年 監督 Jonathan Nolan & Lisa Joy他

1973年 監督 Michael Chrichton

2016年に放映された新しい Westworld (ウエストワールド)は物凄い制作費をかけた興味深いテレビドラマと聞いたが、暴力性が高いとも聞いて敢えて観ようとはしなかった。ところが、

「Game of Thrones の暴力性とはちょっと異なる。大丈夫だよ、これを言ってしまうとストーリーを明かすようだけど、殺されるのはロボットばかりだから」と、3枚組のDVDをプレゼントしてくれた人が言った。 それなら安心して観られると判断した私はこのストーリーに現れる旅行者のようだ。何が起きても所詮相手はロボットだと。

舞台は無法のアメリカ西部開拓時代のテーマパーク。が、お子様連れの家族を楽しませてくれるディズニーランドとは違い人間の持つ悪の欲望さえも開放して満たしてくれるのがDelos社のバケーションのスタイルだ。ならず者のコスプレで西部にフラリ現れると、早速ちょっとした事で諍いに巻き込まれ、殴り合い、銃撃戦が起こるが、お客さんは絶対に殺されない。

死ぬのは人間と見分けがつかないような精巧なロボット(ホスト)だけ。そのようにプログラムされている。死を賭けたような状況(前もって予定された筋書き)で戦ううちに、その人の本性が表れたり、変化していったりする。

そのバケーション参加費用は法外と言えるかも知れないが、人間と変わらないロボットを作り、そのロボットがどのような行動を取るかを常時コントロールし、時として精神問題を抱えたロボットを回収して、セラピー(!)を与え、ゲストに殺されたホストに医療を施すこと(修理)を考えると、安い費用でではできないことが作り物の映画のストーリーとは別に想像がつく。事実、映画の中でも、Delosの株主理事会と、薄気味悪い天才的創始者のフォード博士(アンソニー・ホプキンス)との間に利益と技術・芸術性を巡る対立があることがわかる。

私たちの中にはロボットが人間を打ち負かすほど発達して、人間を繰るようになるかもしれない、繰るばかりでなく攻撃してくるかもしれないという不安がある。 楽天的なAI開発者はもうすぐ人間に協力的な「性格の良いヒューマノイドロボット」ができる可能性があると話すが、一般人は「あいつら(開発者たち)何やるか分かったもんじゃない。でも、人間のようにはどんなに頑張ってもなれないだろう、どーだ」と強く思う。しかし、一方、毎日夜10時半に寝て、翌朝7時に目が覚めて水を飲み、ストレッチ運動して、8時半にコーヒーを飲み、大きな喜びも悲しみもないまま日を送るパターンとなれば、ループ化された日常を送る(送らさせる)ロボットとさほど変わらない。

それでは人間の脳とロボットの電脳と何が違うのだろうかなどと、考えてみる。

人の脳は感情、意識など、個人的で数値化しにくいデータでも瞬時にスクリーンして嫌いなものは見ない、覚えない、例え覚えたとしても意識的に忘れるか、薄くしてしまえる自主性を持たされている(神によって?)。いくら頑張っても重要な情報をストアーできないで困り果てたりもする。これに反してロボットに搭載されている電脳は、デザインした人が変人・奇人なら、その性癖が反映されるだろうし、プログラミングを変えてもらわないと、そのループを繰り返すことになる。人間に近い感情を持たされた性能の良いロボットほど混乱が生じるのではないだろうか。

1973年のWestworldは西部開拓時代、古代ローマ、中世ヨーロッパのテーマパークでお仕事をさせられて、殺されるばっかりで(嫌気のさした?)エラーが出たロボットが人間を襲うという画期的なテーマだった。たったの90分程度の長さの中で、Delosでのバケーション内容、コンピューターの脆弱性、ロボットの反逆などがシンプルに語られる。

自然体でも異様な風貌のユルブリンナーがお客さんを執拗に追いかけて殺そうとするロボットに扮している。延々と続くサスペンスシーン。あれ、どこかで見たぞ。その後10年くらいしてから、Hasta la vista!

と言って一大センセーションを引き起こしたシュワルツネッガーとそっくりだ。ターミネーターは、このアイディアを拝借したかとも思える。

いずれにしろ2016年のWestworldhは、1973年の古いストーリーのパイ皮を薄く伸ばして、折って、畳んでロボットの感情を折り込んで、何層にもしたものだ。ヒューマノイドロボットのメロドラマのようになり、この先、何シーズンも続くことだろう。

登場人物、ロボットの関係がよく分からずに45分、10エピソーをを見終えたが、最後のエピソードは広げた風呂敷を時間がきたからと、慌てて畳んだ感があった。演技陣はさすがだが、今の私の目はコンピューターグラフィックにすっかり慣れっこになっていたことが分かった。